アサリの島流し 254日目 - 会いに行くと決めたから<内地帰省編 中>
自分や友達、人がそれぞれの速度で少しづつ変化するのはまるで夜空のようである。
星々がそれぞれの速さで動いたり、近くの星は星座を形作ったり、その星座がそれぞれの位置を動いていく。
島に来てから夜空の星をじっと見てると、止まっているように見える星たちのわずかづつの動きが見えることに気がついた。あれは自分の動き、地球の自転の速さで。
前記事の帰省編、続きを書きます。
今回、たくさんの再会があった、こと。
一番たくさんの人に会ったのは、やっぱりライブハウスだった。久々に降りた高円寺・中野あたりは、昨日までも同じようにここにいたような気がする、そういう街だった。
一番の行きつけだった、スタジオコヤーマの変わらない眺め。
今回泊めてもらったりもした変わらないやきとり遊助とBOSSコヤーノ。
子猫だった黒猫のジジ坊は大きくなって、やんちゃ盛りの成猫になってた。
いつものようにハセッチのBar森。
相変わらず無茶振りにも飛んで来てくれる先輩たこボーさん、相変わらずちびまる子なごーだ。
飛んで来てくれる、と言ったらこの人達!
いつも一番頼りになる…濃すぎるギタリスト&ベーシストの先輩ファイブ…というか高円寺の呑んだくれスタメン(スターメンバー!…で 笑)
私の働いていたライブハウスにも行ってきた。
実はもうすぐ…ここは無くなってしまう。
ライブハウスのブッキングという仕事をしていた。でも自分が仕事したバンドは、その仕事を超えて大事に思う友…音楽の戦友みたいになる。
私が行ったこの日は特に親しく、リスペクトしているバンドが出てた。
久々のライブハウスは…密閉された会場の音を久しぶりに聞いたので、ライブハウスってすごいなあ!と初めてきた日のことを思い出した。
公私ともに仲良くしてくれる奇跡のアンサンブルバンド、レクターの5人。なんかちょっと上手くなってた!会わない間にDr.ワタナベはお嫁さんもらっているし!
相変わらずにすごくて、どすんと腹にくる雷怒音。好きな一曲の歌詞をほとんど覚えてることに気づき自分で驚く。
おいー!アサリー!とどつきながら話しかけるジャギーさんの声は、さすがの声量…相変わらずでかくて笑ってしまう。
見た感想がすごく変わったのは山崎怠雅バンド。仕事でも数えきれないくらい聞いていて、圧倒的な音なのは変わらないのだけど…なんか、若々しい、直球の歌声に感じた。すっと染み込んで聴き入った。
それは、私が変わったのか、怠雅君が変わったのかわからないけど。
ライブってやはり演奏側と聞き手側がどちらも合わせてひとつの音楽を作ってるんだなって改めて思う。
相変わらずの打ち上げで、フロアの端で沈没するまで呑んだ高円寺。
まるで島に来る前と変わらない景色…でも少しづつ、私もみんなも変わったのかもしれない。
本当に久しぶりだったのは…甲府。実家には本当しばらくぶりに帰った。
昔から戻ると必ず会う友人、それからすごく昔にお世話になって中々会えなかった甲府のJAZZバーマスター兼カメラハウスの社長にも再会。
髪型が坊主になって初めて会ったけど、一瞬で誰かわかってくれて、愛を感じる。
少し離れてからこそ、それがきっかけになり再会できたり、いろんな話をするようになったり。
いつも見送り、迎えに来てくれたり。
ライブハウスで働いた2年、それからその前のブルースバー、学生時代…もっとずっと昔から…。
近づいたり離れたり、空を回る星のように。
友達はいつも心の側にいてくれる。
夜空を見上げないと星は見えない。
内地ではあまり見上げたりしなかったんだな。
よく見ると、空は無数の星がシャンシャン瞬いている。
会いに行くと決めたら、ただそれだけでよかったのね。
ここに書ききれないほどたくさんの今回会えた友達、みんなありがとう。
帰省編、あと1記事だけ…続く!苦笑
アサリの島流し 250日目 - 26時間のタイムトラベル<内地帰省編 上>
ちょうど250日前、初めて乗ったおがさわら丸の中、この海はいったいどこまで続くのだろうかと思っていた。
大島を過ぎると本当に何もない海が、夜が明けても続く。でも再び乗ってみたらよく知った道になっていた。
どんな場所でも体が覚えた場所は馴染みの場所になる。いろいろな場所で暮らしたり旅したりすることは、「地球のどこだって地球」というひとつの実感を、徐々に完成させていくのかもしれない。
先日、初めての長期休みをもらって、250日ぶりに内地へ帰省した。なんだかそんなに前でない気もするし、ものすごく久々な気もした。
帰ってきてから風邪をひいたり慌しかったりでずいぶん間が空いてしまった…。
約10日の帰省、記憶にボリュームがあり過ぎてどのくらい長くなるのか…想像し辛いので…まあとにかく書き出すことにします。
7月から新しくなったおがさわら丸には初めて乗ったけど、もう未知の世界じゃなかった。
乗っている船でも、乗り換えの父島にだって、知っている顔があふれてる。
父島発には初めて乗ったことになるので、見送り船のお見送りは初めて見た。
マーメイドもいた!
初めて乗った時、船で飲んでいる人を見かけて、「島民の方かな?すごいなあ…よく飲めるよな…」と思っていた私でしたが…
行きは6時間くらい飲みっぱなし、帰りも同じ島の人に会えば花咲く飲み会。
新しい船の展望ラウンジ母島(名前から…もう呼ばれている)は華やかな内装もあいまって、さながら地方のクラブみたいでした。
(天井が鏡ってあたりが…笑)
船酔いどころか二日酔いと戦い眠りこけているうちに東京に到着。
10月の竹芝は天気もあって…とにかく…寒い。記憶にある母島の真冬より寒いんでは…。
信号機すらない島から来た私は、慣れていたはずなのに久々の都会で、友達と歩きながらも上ばかり見上げ「すごいなあ」ばかり口をついてでる。
久しぶりに東京という街を写真に撮ると、なんだか海外からの観光客みたいな撮り方をしていた。(海…外、に違いはないか)
最初の3泊は日本橋付近に宿をとっていたのもあって、東側を久々にゆっくりめぐれた。
とにかく風呂に浸かりたい!と騒いでいたら友達が教えてくれたすごく良い銭湯にて、8ヶ月ぶりの浴槽!生き返る!
島に来てからなんでも新鮮な内に手に入る有り難さを知って、食べたいものだらけだった。
寒い時にいい感じのちゃんこ。
島にはラーメン屋がない…もちろんこれも!
都会の冷奴は安すぎる…。
島に来ると「感じ方が変わることがある」というのは聞いていたが、やはり変わったなあと思うことはいろいろあった。
私は大阪の大気汚染のメッカみたいな場所と山梨のカラッとした空気の半々で育ち、適応できてしまうから、今まであまり空気の良さ悪さを気にした事がなかった。
(これは山梨の街の写真)
それでも、やはり東京2日目くらいからマスクを買った。排気ガスもすごいし、街中で風邪ひいている人がこんなにいるなんて。
人混みにはすぐ慣れた。
けれど島にいる時みたいに、立ち止まって伸びをしたり、ボーッと眺めたりすると、とても変な顔をされる。
(平日の朝の山手線の駅で眺めてたらかなり異様な顔をされた景色…)
あとはとても音がうるさい。何重にもなるものすごい合奏が四六時中繰り広げられている。
だから、みんな声が大きい。
私らがいつもの小岸壁で飲む時にあの声で話せない。特に意識してないけどきっと、星の瞬きを消さないよう密やかな声で飲んでる。
たまに盛り上がり過ぎて内地の様なボリュームで盛り上がると、大体翌日島中の人が内容知ってるし…苦笑
いつのまにか、私の人生の中で一番長い時間暮らしたのは、大人になってしまってからの東京近郊になっていた。
けれど、たった250日でこんなに違う様にみえるのだな。まるで片道26時間の間に、もっとずっとタイムトラベルしているみたいだ。
約10日間の私の新しい東京旅行、はまだまだ続く。
やはり長くなりました。3つに分けます…。この次はいろんな再会、の話を。
アサリの島流し 246日目 - 月に梯子をかける
感覚にも梯子がある。
壮大でかけ離れたように感じるものでも、その間にあるものが飛び石のようにつないで、梯子をかけた様にリアリティを得ることがある。
例えば夜空なら、見上げた木の枝、三角屋根の端、電線、雲…。
ない方がいいようで、あった方が夜空のリアリティが増して、まるで星を掴めそうな感じがしたりする。
(もっともこの島は、飛び石になりそうな島もなくがらんと海の真ん中にあるが、現に私は暮らしてる。)
がらんとした空に飛び石を埋めて月までの道筋がなんだか見えてきた、私の今はそんな感じかなとも思う。
きっと、私のなかに元号があったとしたら、それが変わりそうなくらいのことがいろいろ起きているけど、それはまた次の機会に書きましょう。
先週は二つの祭りがあった。
(この島はほんとにイベントが多い!)
ひとつはフラダンスの祭典、母島オハナ。
もうひとつはこの島の農業者が天災がなく豊作になる様に祈る御嶽神社のお祭り。
小笠原の女性が一番たくさん参加してる文化なんじゃないかと思うフラダンス。
南の島つながりだったりで沖縄の三線が好きな人がたくさんいたり、ミクロネシアの空気が漂う南洋踊りだったり「取り入れる」ことが多いのは、この島の若さなんだと思う。
自然は手付かずのガラパゴスの様に独自の歴史を重ねているけど、地理的な難しさから人間はまだまだやっとこの地に歴史を作り始めた時期に当たると思う。
それがとても素敵な形に蕾をつけているのが小笠原のフラダンス。
職場の同僚もここではじめたよ!
気候の似たハワイの音楽はそのままでもしっくり馴染むけど、小笠原の日本語に合わせたフラは、日舞とフラの間を行く様な奥床しい日本女子の情熱みたいなものを感じる。
特に素敵だなと思ったのは若い高校生男女が踊るフラの曲。
島の若い子の、なんとも言えない甘酸っぱい感じ。まあ、実の中身はちゃんとませてるかもしれないけどね 笑
南の島らしさってのは、子供に恵まれたこの島では、子供や若い子に詰まってるのかもしれないと思った。
男子の男フラも、変な衒いなくやり切るパワフルさで、なんかここに来てフラダンスのイメージ変わったなあとしみじみ。
その女達の一大イベント翌日は、農家さん達の一大イベント。
小さな子からお年寄りまで、農家に関わる人がずらりと集まったのは初めて見た。
母島には在住の人がいない為、父島の宮司さんが出張して祝詞をあげている。
というか、神社のお祭りの式って、七五三か誰かの結婚式しかみたことなかった!
祝詞はお経よりわかりやすい言葉なんだなあと感心した。のは、この日の祝詞が「太平洋の大海原に…」で始まった小笠原らしいものだったから。
お祓いを受け玉串をささげる農家の皆さんの後ろ、密かに聞き入ってしまたた…。
と、なんで農家じゃないのに祝詞全部聞くくらいから参加してたかというと…。
この島来て以来ずっと練習していた、小笠原太鼓のデビュー舞台があったから!
最初の奉納の太鼓はもちろん上手な先輩が叩くけど、祭りの宴会はカラオケ大会につづいた佳境、毎年太鼓同好会新人のデビュー太鼓お披露目があるのです。
今年は4人、ノエルちゃんリエちゃんの二人は学校の先生、もう二人は宿業同業にして同級生のみどりちゃんと私。
私はライブに慣れてるとはいえ、みんなの緊張に当てられながら、精一杯叩いた。
小笠原太鼓は、ドンドコと呼ばれる均一な下打ちビートに、フレーズを組み合わせた上打ちを即興で合わせる2人太鼓。
どこかテクノや8ビートに近い均一さを重視しながら土から鳴るような重低音に、父島では男性的で鋭い、母島では女性的で巧みな軽やかさがある上打ちが特徴。
8〜9月の繁忙期は練習に間に合わない日もありながら、師匠からも熱い指導をいただき、どうにか仕上げてもらった。
みんな「すごいよく叩けてたよ!」と褒めていただき嬉しかった。
…けど、子供に見られてるのが一番緊張した…。
だって、この島の小学生、みんな叩けるんだもの…(つまり島育ちの大人はみんな)汗
フラの日も太鼓の日も、最後はいつも通り飲んでたけどね…!
この島に来る時にだってそんな風に思ったかもしれないけど。
最近、ひとつひとつの飛び石がたくさん埋まって、今はもっとはっきりそんな気がしてる。
私は静かに、何か見つけたのかもしれないって。
アサリの島流し 239日目 - 必要なものと不必要なもの
この島に来てまもなく9か月目に突入する。
私の携帯は息を引き取りましたが、危篤のときにバックアップを何とか取れたので少しづつ9月の写真を交えながら、今日は最近ちょっと考えたことを書いてみます。
最初は素晴らしい景色や珍しいもので目を白黒するのに忙しかった私も、だんだん周りにあることが自然の出来事になってきて、あまり驚きすぎたりしなくなった。
周りのものに目が慣れてくると、ここに暮らす人間の社会にも目がいくようになってきた。島ならでは、ということ、また人が暮らす世界のあらゆる場所と同様にあるコミュニティの仕組。
この島には「国を行ったり来たりした歴史」と「ひと際特別な場所にある」という変わった背景が2つある。それが、日本の僻地と呼ばれる田舎とか他の島と比べてもちょっと珍しい構成の、社会を作っているみたいだ。
この島で一番「長い」のはたぶん、昔からの島民、戦前を知っている人だ。
もっとも、小笠原諸島発見の歴史あたりからひも解いてしまえば、その「長い」が指し示す意味は言葉を使う人に依存してしまうだろうけど。
第二次世界大戦ではこの島も戦争の現場となった。その為一般の島民は内地へ疎開したらしい。そこからアメリカの土地になり、返還されて日本に戻ってくる。
この経緯をリアルタイムに目撃している人が一番「長い」島民と思われる。
その次に、返還された後に移住した人たちがそれぞれの時とともに続く。まだあまり知られていなくて、今よりずっと船もスケジュールが不安定で時間がかかった時から、今に至るまで、移住する人はすこしづつ増えた。それとともに、生活のいろんなものも整備されて、今じゃ私なんかは特に不自由を感じないくらいに必要なものがそろった。
この島にいろんな形で人が暮らせば、ここで生まれ育った(正確には出産だけは内地だったかもしれないけど)子供たちも当然誕生する。「島っ子」と呼ばれるここが故郷である人も、普通に暮らせるようになった返還から50年近くたって、つまり50歳くらいまでいることになる。
そして生活環境が整うと、そのための仕事でやってくる人がいる。私なんかは観光業で短い期間だけれど、公務員であったり、土木であったり、医療や福祉であったり、そういう人たちや、島の仕事に就いてみたいと思った人がその為に引っ越してくる。
さて、ここまで書いたのは住民票の所在地如何はともかく、ここに居住している島民。
その他に、島にはたくさんのお客さんが訪れる。
まずかなり頻繁にそして定期的に、仕事のためにやってきて宿などで長期滞在する人々。電気、通信、建築、あとは研究など…その多くが島の暮らしに必要だけど島には会社がない仕事や、この島でしかできない特別な調査を目的としている。
(7月に仲良くなって一緒にライブをやったアーボマンも仕事のために1か月ほど滞在していた林業の専門家だった。その時の記事が→
アサリの島流し 161日目 - アーボマンと島っ娘ライブ - アサリの島流し紀行
)
そして、島へやってくる旅人。毎年決まってやってくる人、人生で一度は来たかったという初めての人、島民に知り合いがいて訪ねてくる人、学校やサークルで来る人、つり、海遊び、ダイビング、山登り、ただのんびり…目的は様々な観光のお客さんだ。
サラダボウルの様に、これだけのいろんな人たちがこの島には「いる」。
そしていろんな人たちが「この島で欠かせないもの」「魅力的だと思うもの」「大事なもの」を十人十色で考えている。
例えば仕事のお客さんは「インターネットの高速回線が必要」と思う。
でも観光のお客さんの中には「この離れた島でのバカンス中は現実と切り離して楽しみたい…」と、島に到着してすぐに携帯のスイッチをオフにする人もいる。
(って、切らなくても集落以外は圏外だから、観光中だと電波外のことが多い。)
島の文化活動では「テレビやインターネットがなかった方がみんな外へ出るから集まりがよかった」と思う。
でも今では多くの島民がネット注文で物を調達し、天気予報で台風情報を追いかけ、最新の音楽でパーティしたりする。ネットがない暮らしはちょっと想像しがたい。
週一往復の船しか交通手段がないこの島では、重病の人はなかなか暮らしていけないし、生活や物の不便はとても大きい。
お客さんにとっても、ここで休暇を過ごすには長い休みが必要になるから気軽に来ることができない。
飛行場があったら今よりずっといいのに、と思う人もいる。
けれど、世界中の飛行場はすべてそうだったように、それを作る場所には作る前の自然があって、この希少な場所ではそれを護るべきだと思う人もいる。
船でしか来れないなんて、不便だからこそロマンティックだ、と思う人もいる。
飛行場を作るお金と、それで得られる利益の計算は果たして合うのだろうか、と思う人もいる。
訪れる人から護るために公園や遺産にすべきだと思うこともあれば、多くの人に訪れてもらうために公園や遺産にすべきだ、と思うこともあっただろう。
昔から静かに暮らしてきた場所を多く変えるべきではないと思う人もいる。
安心して幸福に暮らすために必要なことを変えるべきだと思う人もいる。
様々なことで「島だからこそ」と「島であっても」がせめぎあう。
そのすべてに今日の正しさがあって、そのすべては明日にそぐわないかもしれない。
この場所では足りなくてもよいけどあったらちょっといい、というような今足りていないものに出会うことが多い。
それを用意することがこの島に必要なのか不必要なのかを考えるとき、必ず相対している2つの正しさに出会う。
(と、これを書いている只中、社会の形がまるでDNAのような2重螺旋構造!まさに生命っていう!ね!ね!という科学変態的ポイントで興奮して脱線しかけてしまいました。)
この島での暮らしは、とてもコンパクトに凝縮して、社会の様々な側面を見せてくれる。
少しだけ足りない、それは、いつも少しだけ大事なことに、振り向かせてくれているような気がしている。
と、差しあたって…明日ようやく届く携帯電話。
なくてもいいかなとも思ったけど、今現在私の暮らしにはやっぱり必要であった…かもしれない。
アサリの島流し 230日目 - 9月のこと
忙しさに押し流されている間に2つのお祭りがあったりして、書くことはとてもある。そんな時に…ついに恐れていたことが起きてしまった。
スマートフォンのバッテリーが天寿を全うした模様。
写真のバックアップは…5月の運動会以降がまだとれておらず…。
あれをこれをと溜め込んでいたものが取り出せないし、島での携帯破損はなんて言ったって復旧に時間がかかる。…手続き…そして配送、がね。
腹を据えて諦めるしかないのか…。
この頃に起きたことを、今日は文字だけで書きます。
取り出すか何かして調達で来たら少しづつ書くとして…。
あの父島3泊4日から帰還して、すぐ待っていたのは納涼祭。
台風で延期を経て、9/3に行われた。
返還祭のときと同じように脇浜で花火や盆踊り…で夏休みも終わり戻ってきた島の人たちがにぎやかに集まったのだが…突然の豪雨。
結果豪雨直前のビール早飲み競争がメインイベントの様になり…大人たち踊れず。
ただ、満員電車の様に雨宿りするのはちょっと珍しくておもしろかった。
それから9月はたくさんのお客さんが来た。
8月は台風もあって…9月こそ夏休み本番?!と言わんばかりの忙しさ。
ありがたいことではあるが、宿業の私にとっては日々が猛スピードで駆け抜ける。
もうすぐ引き上げでいなくなる仲間もいて、それはつまり私が一番長いスタッフになってしまうということ。
(といってもほかのメンバーもみんな1か月づつしか違わないが…)
長期で内地に行く人も会社内にかわるがわるいて、なんだか背中に背負ったものが途端に重くなった日々だった。
けれど隙間の時間をみつけては、楽しいこともまたたくさんあった。
島に来て一番酔っ払ったワイン会とか。持ち寄ったワインフルボトル5本に一升瓶1本が空いて、久々に高円寺の明け方くらいには酔っぱらった。無事帰れててほっとしているくらい。(記憶はダイジェスト)
職場のオーナー漁師の旦那さん、親方のバースデーも。ちらしずしのケーキを作ったのは6月の女子会以来かな。それからスタッフで飲んだのも楽しかった。たまにしかできないけど、仕事仲間と飲むのはリフレッシュになっていい。
なんといっても大きかったのはカヌー大会。
これの写真がないのはほんとに…痛い…。
(って当日も楽しくってたくさん撮れてるわけじゃなけど)
あの台風の3泊4日をリベンジできたのだから!!
父島からたくさんの方が来てくれて、昼間はアウトリガーで熱いレース。
夜は後夜祭で野外ライブパーティ。その後はアフターパーティでclub timeも夜遅くまで続いた。
私はライブでJAMMINのリベンジ!
父島・母島のメンバーが入り混じったフリーセッションに参加。
楽器は母島の友達に借りたキーボード。
Sweet home chicago、 Rock me babyやJohnny B Goodeとか…小さな子供から年配の人までたくさんの島の人が踊ってくれて。こんな素敵なRock 'n' Rollは初めてだと思った。
忘れられないことがあった。
小学生くらいの女の子が私の真ん前にじっと仁王立ちの様に立って演奏中見ている。
とにかくじっと見ているので、なんかライブハウスでギタリストが気になる対バンのギタリストの前にこんな感じで見てたりするよな…と思っていた。
あとで道端でその子とお母さんが歩いているのに出会って、ああいうピアノを弾いてみたいと思ったという話を聞いた。すごく気に入ってくれたみたいだった。嬉しかった。
音楽をやっていてこういう形で誰かの記憶に残れることは、なんて嬉しいんだろうと思った。
真夜中も、いつも飲んでるのとはまた違った感じでいつもの仲間とたくさん踊った。
今まで何度だってライブハウスやクラブに行って飽きるほど踊ってたけど、星空の下ほんとにいろんな年代のいろんな人が踊るのは、とても幸せ景色のパーティだった。
(またDJも腕のある人でほんとに気持ちよかった!)
もう内地の夏はすぎてしまったんだろうか?
延長戦のような夏がまだまだこの島では続いている。(同時に私の仕事も繁忙期からやや繁忙期の延長が…)
10月になったらまたあの愉快な人たちが来たり、2月に来てからずっと続けてた太鼓でも…イベントが…。(最近もっぱら頭の中がどんどこどんどこいってる)
世界中のどこで生きていても人間には幸運な日と不運な日があり、恵まれる日もあれば不遇だと思う日もある。
仕事というのはどこへ行っても仕事であり、どんな仕事だって、人が他人にお金を払ってやってもらいたいこと…なのでなかなか楽ではないこともある。人間は誰一人、血縁であったって同じではないので、心を通わすことがむつかしいこともある。
でもこの場所では、息の詰まるような日が来たりするときに、ここにあるでかい海やでかい空、それから風のにおい、鳥の声、それがふっと緩めてくれる。
それからまたみんなで日焼けしてから星を見ながら飲んで、ふっとまた新しい日に出会える。
このひと月のことを文字だけで書いたこの記事の最後に、昨日あったことを。
昨日、この島にきて最初の日からずっと一緒に仕事をした仲間が内地へ帰った。
今でも覚えてるのは、来た日にすぐ「もし用事なかったら飲みに行きます?」って言われたこと。だって、「用事あるわけないっしょ!」って笑っちゃったから。
それからたくさんのことを覚えなきゃいけない必死のとき、知り合いが誰もいなかったとき、猛烈に忙しい中二週間休めなかったとき、先輩がいなくなって心細くなったとき、後輩が増えて悩み多かったとき、ずっと一緒で、いつのまにかもう何も言わなくても息を合わせて仕事ができた唯一の存在だった。
ずっと私より年下だったけど、一緒でよかった、と思える私にとって職場最後の先輩がいなくなったのはかなりこたえた。
前の先輩が帰るときは結構2人とも泣いてたけど、なんだか今回泣かなかったのは、悲しくなかったからじゃない。
彼女が島でやりたかったこと、思い残すことなくやりきった、って言ってたから。
その旅立ちはとても希望に満ちてて、私は最近まで彼女が持ってたバトンをポンと渡されて「進まなきゃな」と思ったこと。
それと、また会いに行くって決めてるから。
この島でできた友達はきっとなにか特別なのである。
(これは携帯壊れてからもらったんだった!)
アサリの島流し 195日目 - 夕焼けとJAMMIN、そしてサラバ。 <嵐の父島その3>
嵐が去った。
私の心中でもようやく雨風が止んだので、3日目にしてようやくギターケースを開けた。
まだ風が強い昼時までは、すっかり仲良くなった皆と買い出ししてカレーを作る。
昨日はご馳走になった方が多かったから、生協と農協で手に入った材料でサラダ代わりに生春巻きを作ってお返し。
↑後で仲間が送ってくれた写真
珍しがってやたらに喜んでくれて、いつも仕事で料理を人に出してるくせになんか照れくさい。
外がようやく落ち着いたので、みんなあちこちへ出かけはじめる。私もギターを担いで前浜あたりで、母島の脇浜よろしくしばらく海に向かい歌う。
普段は穏やかな浜も、台風明けたばかりの今日は湘南の冬場みたいにざばざばしてる。
どこからともなくたくさんのサーファーが集まりだした。
普段も海の只中に暮らしてるけど、小笠原にはあまりサーフィン向きの場所がない。久々に芋洗いな浜を見て昔住んでた鵠沼海岸を思い出した。
とぼんやりしてたら…
遠くから何かリズムが聞こえてきた。
なんだろ…南米ぽいリズムだな…スチールパンかな…?
と、音の元をたどると…いつの間にか青灯台(本物の方)に…見覚えのある姿が…
あっ!
6月に飲みながらジャムったヒロさんだ!
その時のことはこちら→アサリの島流し 136日目 - 父島へ行くの巻 - アサリの島流し紀行
こりゃたまらん、とまだ15時だがビールを片手に眺めてたら…
いつの間にか参加して…
どんどん入れ替わり立ち替わり人が増え…
ビールがどこからともなく補給され…
すっかり出来上がった夕暮れ!
夕焼けと、終わらないセッションは最高だった。
ヒロさんのリズムも気持ちよくて
(あんまり良かったので現在、技を真似しようと奮闘中)
友達も出来て…子供らとも遊んで…
嵐の後にはこんなjammin'が待ってたなんて。
夕方、先に帰った友達から翌日臨時便が出るとの情報が。それなら、と一旦宿部屋帰って片付けてからもう一飲み行くことに。
帰るとなにやら魚をゲットした人がいたらしく、さばくのに皆困ってたから刺身だけ作って乾杯してから、出発。
(今回は本当に仕事の技術が役立った)
さっきのジャムで友達になった人と飲むべくヤンキータウンというBarへ向かう。
欧米系の人がやっているらしいお店はとてもアメリカンな感じでいいなあ!とカウンターに座ろうとすると…先客がもうひとり…いや一匹。
きちんと作ってくれるお酒もうまくて、途中から母島にも来てて仲良くなったドイツ人の旅人もばったり現れたり、なんだか不思議な良い夜だった。
(猫のシロさんとも終始一緒に飲むことになった)
3回目の夜が終わって朝が来ると、それはなんだかやけに長くて濃かった3泊4日の終わりが近づいていた。
同部屋の仲間より一足先に、しかも内地じゃなくて母島に逆戻りする私。みんな別れを惜しんでくれて、たった2夜だったのが信じられない気持ちだった。
おが丸の振替チケットに並ぶ友達を見て、私も一緒にまだ旅ができたらどれだけ楽しいだろう、とか少し考えた。
今夜も父島の友達とジャムって飲んだら楽しいだろうな、とかも考えた。
台風の只中にひとりぼっちで早く帰りたかったのが嘘みたいに、今度は帰るのがとても寂しい。
島民くらいしか乗らない臨時便に見送りは他にない中、私の部屋の仲間が「島の見送りのやり方わからないけど…見送りたい!」と一緒に来てくれた。 乗り込んでデッキに出ると、一番若いポカちゃんの「こっち見ててください!」という大きな声。
人文字で
「サラバ♡」
その後、どうしたらいいか持て余しながらも考えて、なぜかラジオ体操をする仲間達 笑
友達ができたんだな、って思った。
なんだよ、なのにもうお別れなんて。
必ずまた、会いにいくからね。
あとで母島から同じおが丸乗る子へ、私の友達へ託したメッセージ。届いたらしくてよかった。
すでにアクティビティある中、遠くから見守ってくれて写真送ってくれた仲間もいた。
↑リアルにこれの中にいました
船が出ると、さすが台風明けたばかりの海はファンキーな縦揺れ。私は酔い止めのアネロン飲んでたからぐっすり眠るうちに母島へ到着。
ああ、帰ってきちゃった…
ややブルーになりつつ、電波と同時に入った仕事の連絡に返信しながら下船の支度してデッキにでると…
「アサリちゃーん!!」
と聞き覚えのあるでかい声が…笑
おかえりー!!
と、この旅の最初は一緒で一足先に帰還してた友達と、職場の同僚や…
母島の…すっかりいつもの顔が並んでる。
父島に比べたらほんと、やっぱりこじんまりしてるな!と、私はすっかり笑っちゃって、恥ずかしながら帰ってまいりました、のように船を降りた。
やっと帰ってこれたー!ただいまー!
ってね。
その瞬間、ふと、嵐の父島はなんだかんだ…ほんと素敵な想い出になったなあ!と、もっかい思い出し笑いした。
(父島の旅、やっと、おしまい)
アサリの島流し 194日目 - そして誰もいなくなった<嵐の父島その2>
……。
続きを書くのが中々進まなかった…。
仕事も思い出も、まだしまい切れないほど山積みだったので…。
ぱっぱと上手くいかないこともあるけど、そんな時はさ、少しずつコツコツ進めていこう。
父島へ行った2日目の朝。
友達達は精算を早く済ませ、皆でパン屋に並ぶ。 私はとりあえず昼飯を買っとく。
まだ宿は決まっておらず、先のことは見えない。
7:30発のはは丸は皆を乗せて呆気なく出発。
なんだ、この無性な寂しさは…!
なんとか今夜の宿早く決めたい…と焦るも、中々朝は電話がつながらない。(同じ宿業だからわかるが…)
元職場の先輩が宿を当たってくれたりしたが空いておらず、端から電話して30分、ようやく繋がり、友達が昨夜一人泊まったドミトリーベッドをなんとか確保、JAMMIN設営集合場所へ。
当たり前だがみんな初対面…。1人紛れた感じでおろおろしながら、打ち合わせの模様を端っこでぽつんと聞いている。
15分後…協議の末に中止が決定…。
もちろん予定はこれしかなかったので、どうしたらいいか呆然とする。
とにかく前日までにされていた仕度を片付けにだけ参加、何人かの人とご挨拶してる間に…。
終了…して解散。
台風が待ち構えているだけである。
まだ青い空をほぼ放心状態で見つめながら、宿の部屋に入れるのを庭で待たせてもらう。
こ、これからどうしよう…。
呆然自失の私は何をしたらいいかも浮かばず、ただ近所を行ったり来たりする。
昼のうちは晴れていた空も、どんどん雲が立ち込め、夕方には風も変わりはじめた。
私なんで残っちゃったんだろ。
もう1時間早かったら船に飛び乗れたのに、私なんで1人でこんなとこぶらついてるんだ。
街角でたまにJAMMINの話題が上がるのを聞くだけでもどんどん落ち込む。
ひたすら天気同様、私の心中も雲が立ち込め風が強くなってきた。今にも雨が降りそうだ。
もう自棄酒かっくらって寝るしかない。
と、酒を買ってベッドでごろごろしてると、1人、また1人と同部屋の人が帰ってきた。
今夜もみんなでごはん作って飲むから一緒にどうですか?と、声をかけてもらった。
帰ってくる内地から来た旅人達は、なんだか台風を前にしても明るい。そういやうちのお客さんもそうだったな…。
帰り予定だった翌日のははじま丸「欠航のお知らせ」が放送される頃には、部屋の人はみんな大集合していた。
なんだか合宿のようなテンションでみんないそいそ料理をはじめてる。なんだかそのまま流されるように、私もそれに加わりはじめた。
それぞれはみんな一人旅みたいだが、すっかり打ち解けてる。勢いよく増える仲間達に、私は名前を覚えるのが必死だ。
入り口も雨戸下すだろうからもうどこにも出れないし、オリンピック観ながら飲もう!と、すっかりみんな元気良く乾杯。
人の孤独というのは独り、という状況ではないのね。心の不安が孤独になるのね。
誰もいなくなって私は1人で嵐を越えなきゃならないと思ってたけど、思わぬ心強い仲間がたくさん現れた。私はあっという間に孤独じゃなくなった。
やがてみんな床について電気を消す頃には、入口の雨戸も激しく唸り始める。
嵐は翌朝も唸ってたけど、比較的良く眠れた。
空はまだ雲の中だけど、心の台風は一足早く、もう私から離れはじめてた。
嵐が過ぎた後…台風一過のような素敵な日が待ってたからね。
まだ、つづく。